・僕ノ夢日記・
捌 - 誰かの夢日記 -
「ああああああああ、あ、あ、あああ、あああああああ」
「まずいっ! 声出しやがった! 逃げるぞ!」
病室から三人の男が早足で出ていく。三人とも看護服を着ており看護師であることが分かる。三人はそれまで、病室にいる一人の男を、憂さ晴らしから病室にあった角のある雑誌や私物の警棒などで暴行を加えていたのだ。その男自身も、気に入らない事があると暴力をふるい、それならまだしも突然暴れ出して何人も怪我人を出したこともあり、公にならない限り誰も看護師の行為を咎める事は無かった。しかもこの男は何をされても声を上げる事が無かったが、今回珍しく声をあげたのだ。しかしそれも、急に奇声を上げることはざらにある事で、今回がたまたま重なっただけであった。その奇声は何処かわざとらしく、張り上げた声ではないため他の人間に聞かれるような声ではなかった。
男は辛そうに寝返りをうつとベッドから落ち、大量の雑誌が男の体を受け止める。ファッション雑誌が主で、中でも靴の雑誌が目立つ。また女性向けのファッション雑誌まであった。
身体中に痛みを感じながらベッドに掴まりつつ立ち上がる。今まで眠っていた白いベッドを覆う、天井から吊るされたクリーム色のカーテン。男はそれを開き、周囲を見渡す。そこは外に格子がかけられた窓が一つある小さな個室。洗面所もカーテンが遮っているだけでベッドのすぐ横にあった。男はこの場所に対して記憶が無く、唯一あるとすれば雑誌に見覚えがあるぐらい。それ以外は初めて見る光景だが、此処が何処かの病院の一室だという事は理解出来た。窓の外は夜だ。
部屋の出入り口である扉を見る。それは見た目からも簡単に開きそうにない、牢屋の様に重厚な扉だった。男は記憶の中から嫌な予感を思い浮かべる。自分はブーーーンという音で起きたのだろう? 隣の部屋では自分を「兄様」という気違い女がいるのだろう? 自分はこの事情を訊く為に食事を持ってきた女性の手を掴んで「あーれー」とか言われるのだろう? と。そんな妄想の堂々巡りをしていると、身体の痛みが激しくなりベッドに寄りかかって蹲る。何故痛いのかも、何をどう考えていいのかも分からず混乱していた。
タツタツと、病室の外から足音が響いている。一緒にガラガラという何かを転がす音もするが、足音は少し高く響いていることから女性か、小柄な男性を想像する。そしてそれが段々男がいる病室に近付いてきて、その音が無くなった瞬間病室の扉の鍵の音がしたが、ワンテンポ置いてまた鍵の音がし、扉が開き、その時初めてそれが引き戸だと分かった。
「あれ? ベッドから落ちちゃいました? 鍵開いてたけど、誰か来ましたか?」入ってきたのは女性看護師。医療器具を乗せたワゴンを運んで。中肉中背、ライトブルーの看護服……それだけ分かると男は彼女から目を逸らした。
「さ、注射打ちますので腕出して下さい」女性看護師はワゴンから注射器と小瓶を手に取る。男はソレを見て不安になりつつも、大人しくベッドに座る。それを見た女性看護師は、怪訝に思いながら、笑顔になって男が眠りから覚めたばかりと知らずマイナートランキライザを打っていく。そして終わるとワゴンを病室から出し、自分はベッドの横にあった椅子に腰掛けた。そして次はカルテを手に持っていた。
「眠たくなったら寝て構いませんので質問に答えてくださいね。今日は何食べました?」
「……っ……うっ……」
「え?」男は口をパクパクと動かすが、声らしい声は出なかった。だけど男は質問に答えようと声を出したつもりだった。女性看護師はハッとして、外に出したワゴンから先程男に打った薬品を確認する。反応がいつもとは違ったため、打った薬を間違えたのかと思ったからだ。勿論そんな事は無かった。
「少し待ってて下さいね」
女性看護師は病室を出て、男の担当医に様子が変だと知らせに行った。男はその間、声が出せない事に混乱し、ベッドに座ったまま固まっていた。
その担当医である女性医師はすぐに駆け付けた。女性看護師から「いつもより大人しいが、こちらが質問すると声を出さず苦しそうに口をパクパクさせていた」と聞き、彼女を仕事に戻らせ自分だけ男の病室に入る。
「これ、何本に見える?」病室に入るなり、女性医師は男の目の前で指を三本、振って質問する。男は喋ろうとしたが、指で三本と表す。
「『らりるれろ』って言ってみて」
「っ……ぃっ……」喉の奥で音がするものの声は出せなかった。それを見た女性医師は眉間に皺を寄せる。
「っ……っ……」男は別の事で声を出そうとした。しかしやっぱり出なかった。
男にはその女性医師に見覚えがあった。今とは印象が違うものの、それは間違いなかった。そして名前を呼ぼうとしたが、喉まで来て息が詰まった。
女性は長い髪を後頭部にまとめ、白衣は急いで羽織ったためかズレて豊満な胸を隠し切れていない。それが男の目にとまり、もう一度名前を呼ぼうとするが、結局声は出なかった。
「んー? ……まぁいいわ。注射打ったのよね? じき眠くなるから横になってて」女性のあまりの追求の無さに男は失望する。病院の勝手は分からないが、こういうイレギュラーの様な事は頻繁に起こるのだろう。だからこうやって望みもせずオオカミ少年の気持ちになってしまっているのだと、また自分自身だけを納得させる理由を探していた。そう思えば気も楽で、今打たれた薬の作用か瞼が重くなってくる。男は大人しくベッドにもぐり、フッと数人の男に囲まれていた事を思い出したが、それよりも眠気が勝ってしまい、意識は遠のいていった。
女性医師は休憩室で缶コーヒーを買ってから、休憩室の隅に追いやられガラス張りの見世物小屋の様な喫煙室へ入った。缶コーヒーを開けてからタバコを燻らせると全身をソファに預けた。
「あ〜ぁ……は〜……」思わず声を出して溜息を付く。タバコの味も分からぬほど女性医師は疲れていた。しかし今日は担当する患者に少し変化を見た気でいた。いつもの繰り返しで無く、それは希望の光なのか絶望の静けさなのかまだ分からないが、仕事の上での希望が出たのは確かだった。しかし疲れた事には変わりない。今日も痴呆患者四人に暴力を振るわれた。彼女自身、全く自分はこの仕事に向いていないのではないかと、今日の彼に会うまでは考えていた。だけど彼の少し変化に希望を得た自分を確認する事で、続けようと思うのだ。幸い身体は昔から丈夫で、相手に怪我を負わせず組み伏せる方法も知っている。肉体面より精神面にダメージが酷い事は承知している。だがそれも仕事と思うだけでかなり負担が減り、その代わり笑顔も作らなくなっていった。
「あつっ!」火種がフィルターまで届いていた。本体は綺麗には燃えず、蛇が這いまわったように部分的にしか燃えていなかった。意識はしなかったが、急いで吸い過ぎたのかもしれない。もしくは湿っていたのか。何であれ思わず床にポトリと落としてしまった。また一つ溜息をついた後、それを灰皿へ。
もう一本火をつける。その時缶コーヒーには一口も付けていない事に気付いて口に運ぶ。
(……味しない……)次の一本はちゃんと吸い終える。
男は思いの外眠れず、窓の外はまだ夜だった。寝違えたのか寝る前の影響か、身体が痛みを訴えている。しかしそれが無視出来るぐらいになると、まずサイドテーブルの引き出しを漁った。何か、何か無いか。何かとは何なのか。それの用途は何なのか。分からないまま探すが、無かった。探しているものはすぐ隣にあるような、男にとって毎日持ち歩いていたぐらい身近なそれが何処にもなかった。探せる場所はサイドテーブルと散乱した雑誌類の中ぐらいだが、その影も無い。何か分からず探す行為は空しく、少しの胃のむかつきが空腹感を表していた。
ベッドにうつ伏せに倒れ込むと腹部に堅いモノが当たる。探るとそこにフェルトペンがあった。ペン先が太めの油性ペン。その時男は自分が探していたのは書くものだった事が分かった。男はキャップを外して辺りに散らばっている雑誌の空白部分に何かを書こうとするも、手が止まる。何か書こうとした瞬間、それが分からなくなったのだ。書こうとした文字が分からなくなった。文字が頭の中から消えてしまったような、そんな説明()し()が()た()い()状況におかれた。思いだすかもしれないと無意味に雑誌を塗りつぶすのだが、頭の中も塗りつぶされたソレと同じだった。
「んあ゛あーっ! ………ぐぐん……」顔を埋めたままわざと喉を痛めるように声を出し、咳き込む。そうすることで何処かスッキリする気がしたが、全くそんな事は無かった。
次はカツんカツんと足音がする。さっきよりも甲高く、少し速いテンポだ。しかし音からして先程の女性看護師では無く女性医師の方だろうと勘ぐる。足下まで見ていないが、ヒールの高い靴を履いているイメージがあったから。男はベッドから起き上がって扉を見遣る。
「まだ起きてた?」予想通り。今度は冷静に相手に伝えようと、しかしどうすればいいのか考えて結果相手を睨むようになってしまった。
「? あ、書くものいる?」気持ちが通じたか、望みの言葉に男は素直に首を縦に振る。女性からメモ帳とボディがグリーンのボールペンを受け取りながら、そのペンを取り出した胸ポケットにもう一本ペンがある事を確認する。男はすぐそれがカメラ付きのペンである事に気付いた。
気にせず書こうとするも、先と同様文字が出てこない。手が震え、不規則な点を書き込んでしまう。女性はそれに気付き、手でちょっと待ってて、と示すと早足でナースステーションまで行き、一枚のボードを持ってきた。それには数字と五〇音が書かれたものだった。どうやらそれは以前別の患者の保護者が作っていたものらしく、今はこうして再利用されている。
「これで教えて。ゆっくりでいいからね」それが五〇音と数字が書いてある事は理解出来たが、男にはそのボードを正視出来なかった。男にはそこに書かれている文字が動いて見えていた。『し』は蛇のように這いまわり、『ぱ』は他の文字を飲みこんで、『お』音の文字は大きさ違えど全てぐるぐると回り続けていた。その他の文字も不規則な動きを見せる。男は途端に蒼ざめ、ベッドに深く座り込んで俯いた。行く手を全て塞がれたような、そんな気分になっていた。
「どうしたの? 今は眠いかな? また明日にしようか?」男は反応する気も失せ、布団を頭からかぶった。男はもう、自分以外を拒み寝耽ることを選んだ。女性は理由は分からずとも男がそうしてしまったのだから仕方が無いと、「何かあったらナースコールを押してね」と言い残しメモ帳とペン、ボードを持って病室を出て行った。
結局、堂々巡りじゃないか。夢()も現実()も変わらない。そう思うと男は静かに眠る事を選んだ。しかし、その夜の夢は一切覚えていなかった。
次の日になって男は部屋を片付け始める。と言っても散らかっているのは雑誌ぐらいで、今になれば興味のないモノばかり。保管出来る場所も無いので病室の隅に重ねておく。何も無くなってしまった。片付けの合間備え付けのトイレで用を足し、洗面所で顔を洗って内外共にすっきりする。鏡を見ると男はそこに映る顔を凝視する。記憶にあるソレに似てはいるが、今見ているソレは酷いものだった。前髪は顎まで伸び、頬や額にはニキビ痕、クッキリとした目の下のクマ、青白い肌、数日前に剃ったのだろう今は不細工な髭が生えている。
男はそれを見なかったかのように素知らぬ顔。その顔をタオルで拭き、ふとベッドを見る。するとサイドレールに設けられたテーブルの上に白飯、味噌汁、ニボシ数匹、漬物、牛乳という小学校の給食のような簡素な食事が乗っていた。男はそれに今まで気付かず、片付けに夢中になっていた所為だろうと納得させる。実際にソレで間違いは無かった。男は食事を持ってきた看護師に声を掛けられていたがそれにも気付かなかったのだ。
食事が終わって特にすることも無く、ベッドに横になる。なるほど。これは雑誌が必要だ、と一番上にあったメンズファッション誌をパラパラと捲る。今となっては興味のないモノばかり。お洒落なシャンソン歌手にもヒールの高いブーツにも興味を持てないでいる。何と無く良いモノだなと思いながら、それは購入の対象と言うより画面の向こうでヒーローアクションを見ているような、そんな現実味のない憧憬だった。
男はベッドに仰向けに寝ると、右側から人の様なものが視界に入る。ぼんやりとしていて辛うじて長い髪のシルエットで女だと分かるぐらい。幽霊のようでいて、少し不気味だがそれについて男にリアクションは無かった。
「この間ニュースで見たんだよ、タイでの事なんだがな、見出しは『飲み会続けたい-断られ自殺』って。詳細はこうだ。男四人、マンション八階の一室で飲んでて、そろそろお開きって頃、一人が飲み足りないからもっと飲もうっつったんだが、後の三人は明日の仕事に響くからもう帰るっつったんだ。そしたら断られたその男、ダストシュートに飛び込んでオッチンダっつーんだよ。タイはどうやら突発的な自殺が多いらしいんだが、どうもその様子からして死ぬとは思っていなかったんじゃないかとか言われてるけど、自殺ってさ、相当異常な精神になってなきゃやらねぇと思うんだよ。こと先進国においては。あんただって自殺を考えたことぐらいあるだろ? でも遣んなかっただろ? 自分が死んだ後の事も考えたり、自殺した事の利点を考えたりさ、そんでもってそれ以前にすっごく怖くてさ。死のう、いや、このままオレは死ぬんだ〜って考えていながらお前はチキンラーメンにお湯を注いであまつさえ卵一つ添えてんだろ? あたしはそこに白髪葱添えたぜ。卵も煮玉子さ。日本は自殺大国だ。自殺がしたいか肩凝りになりたけりゃ日本に行けってね……先日、親戚のおっちゃんが死んでさ。自殺なんだよ。納屋で首吊ってたんだとさ。夜、炬燵でミカン食べて、夫婦で会話してて、外で犬が散歩してくれって吠えてるからおっちゃんが見に行ったんだと。そんでなかなか戻ってこないなぁ、靴やつっかけはあるのになぁ、って思ってたら、そうなってたんだってさ。おっちゃんはお酒好きでだいぶ身体にガタ来てたらしくて、そんなのも理由あるんじゃないかって周りの人は言うけど、分かんねぇよな。今年その狭い町で自殺者三人目なんだとさ。なんかいるんじゃねぇの? あそこ? ってな」
幽霊の様なそれはベッド沿いに移動し、男の左側に来た。そしてふぅっと消える。
ガチャ
病室の入り口の鍵が開いた。引き戸が開いて昨日の女性医師がいた。女性医師は病室を見渡しながら男に近付く。
「片付けたの? スッキリしたわね」女性医師はさっきまで幽霊の様なそれがいた場所に椅子を持ってきて座る。「折角だし、部屋、前のところに戻る?」返事に困り反応出来なかった。男は前の部屋を覚えていない。その間も幽霊の様なそれは男の左隣にいる。
「ね、今、何か私に伝えたいことある? あのボード持ってこようか?」そう言われ男は気付く。さっき見た雑誌の文字はちゃんと読めた、と。今なら何か伝えられるかもしれないと首を縦に振る。伝えたいことなど特に無いが、何かのきっかけが掴めるかもしれない。男は希望に似たモノを胸に秘めてボードを取りに行った女性を待った。女性は急いだのか、鍵を閉めずに出て行った。
「正解は何だと思ってんの?」幽霊の様なそれが再び口を開く。
「正解も不正解も無いかもしれんな? でも、マシな選択ってあるだろ? 私はそれを言ってんだよ。あんたが思ってる正解って何だ? お前はこれからどうするんだ? 今だったら外を出られるんじゃないか? それはダメな事なのか? 鍵の開いている扉を出て行くのは不正解なのか? それともお前はマークシートを塗りつぶす事さえ挑戦しないのか? 今までの様に」それ以降、幽霊の様なそれは姿を消した。完全に見えなくなったと思ったら、女性医師がボードを持って戻ってきた。
「難しく考えなくて良いから。小さな事でいいのよ」男を気遣うように告げるが、少々女性医師から焦りに似たものが滲み出ていたが、男はそれを冷やかな目付きで受け流した。それはまたボードの文字が動いていたからではない。だからって文字が読めるわけでもない。ボードが真っ黒だったからだ。綺麗に、エナメルのように光沢まで出ている真っ黒だったからだ。不審に思った女性医師はボードを見なおしたが、特に気付く事も無かった為やはりそれは男にしか見()え()て()い()な()い()のだと分かり、意識せず鼻で笑ってしまった。
「えぇ?」つられ笑いか、しかし単純に男が感情を示した事が女性医師には嬉しかった。
男は女性医師越しに病室の入り口を見る。扉は閉まってはいるが鍵は開いている。それに気付いた時、先の言葉を思い出し心に影が差した。何が正解かも分からぬ内、男はベッドから出て、怪訝な顔をする女性医師を後目にその入り口へ向かう。
「ちょっとま、ま、待って! 何処行くの?! 一人では出られないわよ!」ぬらりと歩く男の腕を掴んで女性は止める。しかしその抵抗の無さから大きくは咎めず、男を手前に振り向かせた。
「どうしたの? 外の空気が吸いたいのなら、ちゃんと言って……いえ、何か示して? 私の肩をポンと叩くとか、何か、ね?」
「……」男は頷き、女性医師の肩に手を置いた。
「外行くの?」男は何も示さず、女性医師の両肩をガシッと掴んで椅子から立たせる。女性医師はこの先起こるであろう事を予想して身体を強張らせるが、大した抵抗もせず男にゆっくりとベッドに寝かされ、その上に男が覆いかぶさる。しかし男は鏡で見たモノを思い出して女性医師から離れ、さっきまで女性医師が座っていた椅子にへたり込んだ。
女性医師は自分の肩を抱きながら起き上がり、頭の中を切り替えて男を開放するように目線を合わせた。
「ごめんね……なんか……」男は小さく首を振り、そんな意味で止めたのではない事を示すが、その意思表示を満足に出来ず顔を伏せてしまった。
「……外歩こっか。以前より調子よくなってるみたいだし、閉じ籠ってても何もないしね」
彼女は何故、仕事とはいえ此処まで優しくしてくれるのか。さっきは一歩間違えればレイプされていたかもしれないのに、何故……などという疑問を男は一切浮かべず、沈んだ表情ながら彼女に促されるまま病室を出る。無機質な廊下に少々気を圧迫されながらも男は女性医師の後をのそのそと歩いて行く。たまに看護師とすれ違うが、冷やかな目付きで睨まれ、男がそちらを見ると目線を伏せてから逸らしそれが何人も続いて、男は射的の的みたいだなと思うも気分は良くないので視線を伏せて歩くことにした。するとやたらとリノリウムの継ぎ目が目に付き、それを辿って歩いているといつの間にか女性医師と逸れてしまっていた。
キーンと耳鳴りがする。照明が妙に眩しく感じる。人の笑い声が聞こえる。幸()せ()そ()う()な()嘲()笑()だと男は思うと、その瞬間世界が回って後頭部から鈍い音が一つ。男はそこで意識を失った。
男はすぐに見つかった。当り前だ。一〇メートルほど後ろで倒れていただけなのだから。
病院の出口はすぐそこと言うところで男は何が原因か、泡を吹いて倒れていた。応急処置を施し命に別状は無いが、意識は戻らないので仕方なく元の病室へ運ばせた。そして女性医師は今日三度目のタバコ休憩に入る。
「あ、お疲れです」一本吸い終わりもう一本に火を付けた頃、後輩の女性医師が同じ休憩室へ入ってきた。他の喫煙室はあまり利用しないが、喫煙者は男性より女性の方が多く感じている。事実病院関係だけでなく、全国的に女性の喫煙者が男性より上回っているのは確かだ。
「またあの患者ですか?」
「えぇ。親()友()の弟だからね」
「その親友、最近お見舞いに訪れたのはいつでしたっけ?」
「……」彼女の言いたい事はすぐに分かった。好い加減一人の患者を贔屓するのはやめろと言いたいのだ。いくらその義理があるとはいえ、その親友は実の弟の見舞いにほぼ一年も来ていない。それどころか音信不通となり、実質彼の保護者はいなくなり、同時に義理も無くなったに等しい。それでも彼にご熱心な態度に周りは飽き飽きとして、プライベートな時間で話すのもこの後輩ぐらいとなっていた。それでも皮肉めいた事を言われてしまうのだが。
「でもまぁ彼、もうちょっと気を使えば良いビジュアルしてますよね。だからあいつらにボコボコやられてるわけですけど」
「……むなしい」
「はい?」
「なんでも無い」彼を贔屓する理由が無い今、感情で仕事をしている自分が嫌になっていた。しかし医師としての使命や義理の残()り()か()す()とは別に、惰性に似た継続があることも事実だった。だがここにきて希望めいたものが見え始めた。通常の生活と比べれば支障はあるものの、精神は比較的クリーンになっていると診断出来る。保護者さえいれば自宅療養でも問題ないほどに、と女性医師は考えていた。
「もし治ったら、彼と食事行きましょうよ。その夜の面倒ぐらい私が看ますよ」後輩はにやけながらそんな事を言う。殆ど茶化すようなその言葉に少し噎せ、付けたばかりのタバコを床に落としてしまう。
「あ、あ、大丈夫ですか? はは、ごめんなさい、冗談ですよ。先輩の大事な王子様に手を出す気はありません。私にはちゃんと彼がいますんで」
「……」もう一本、それが終わったら戻ろうと蛍光灯に向かって煙を吐いた。
真っ暗な空間にポツンと、僕だけが立っていた。するとずっと先の方にライトで照らされた、腰ぐらいの高さのテーブルが現れる。その上に何かあるようだ。僕はそこに歩み寄り、ライトに照らされない位置からそれを視認、銃だと分かった。だがその小さな外見からして本物かどうかまでは分からない。しかしそれを重石にした紙には『こいつはホンモノ How do you do?』とあることから玩具の様だけど本物なのだろう。
僕はそれを恐る恐る手にし、本物なのかどうかを確かめたいが、撃つのも怖かった。だがずっしりとして、それだけで本物なのかなと思った。
『君も好きだな。キャッパのリノリボルバーなんて。やっぱ2インチだよね』
僕はそれを持って目の前の階段を上る。そして引き戸になった扉を開けるとそこは真っ白な空間。さっきまでいた真っ黒な空間が塗り潰されるほど真っ白。その中心にお嬢があのリクライニングチェアに座っていた。
『Shoot it! Shoot it! 幻想なんて吹き飛ばせ!!』
僕の心は今凄くフワフワと軽く、突っ掛かり無く腕が持ち上がってリノの銃口がお嬢の額に向く。357の口径で、それも頭なら一発で十分だ。
「都々木は、もう必要としないのね? だったら至極簡単な事で束縛から解放される。でもそれが正解なのかしら?」
「あんたは僕を捨てたじゃないか」
『彼の事を何処から記すべきか。どうせ記すのは最後になるのだから、最初から記そうか。
ここに来てから彼は幻覚が全てだった。彼もまた他の患者と同じように現実から目を背けた人間だった。中途半端な甘えが支配し、中途半端な知識が圧迫した……と、今思えばそう言えるかもしれない。昔の彼を、私は嫌いだった。
彼の姉とは幼馴染だった。そのよしみで彼女は彼をこの病院に収容した。そしてすぐ、今から一年ほど前、私の口座に彼女名義でお金が振り込まれたと思うと、彼女は音信不通となった。あんなに仲が良かった弟を措いて。
彼は姉の影響だろう、以前からファッションやサブカルチャーなどに興味があり、私は何かの糸口になるのではと指定する雑誌を買い与えていた。メンズだけでなくレディスファッション誌や、モノ誌、グルメ誌など計八誌。休刊になったり合併したものがあったりと、当初よりは減っている。
バイトですら姉に「カフェとか似合うんじゃない?」と言われて始めたのだとか。一度私も誘われて行った事がある。その時のエプロン姿は確かに似合っていた。接客自体は苦手だったのだろうけどその時の店長を見て、これも理由に続けているのかな、と思った事を覚えている。
姉には何が原因であんな状態になったのか分からないと言っていた。原因なんて一つじゃないし、いくら家族とはいえ他者が思案して答えが得られるものでもない。しかし、何か大きな出来事と言うと、そのバイト先の店長の娘さんが、事故で無くなった事だろうか。詳細までは分からないが、ニュースになっていたのを聞くと、何かの拍子で縄跳びが首に絡まり、誰も気付かず窒息死したとのことだ。彼も顔を合しているだろうし、それも原因の一つかもしれない。
何も治癒方法が見付からぬまま時が過ぎるのかと思っていたが、突然彼に劇的な変化が現れた。雑誌を買い与えていた事が本当に糸口になったのかもしれない。以前無かった失語症はあったものの、幼児退行や痴ほうは見られなくなったのだ。その原因は彼の趣味だとしても、何故急に変化が現れたのか。特別に投薬をしたわけではなく、特別にカウンセリングを強化したわけでもなく、彼について変化があったとするなら、病室を変えたぐらいだろうか。しかしそれは、今回が初めてではない。トラブルを避けるため、売店や手洗い場など人通りがある場所から遠い病室に。その結果男性看護師による暴行が頻繁に行われてしまったわけだが。
何であれ、彼は回復と言ってよい進展を見せていた。だけど、彼は自殺した。』
そこまで書くと、女性はそれらを綴ったメモ帳を破って丸め、ポケットに入れた。そして喫煙室でもないのにタバコに火を付けると、その一本を最後に空になったケースを壁に投げつけ、その壁を殴った。
女性が一服している間に男は鍵がかかっていたはずの病室を抜け出し、ナースステーション横に置いてあるおしぼりを口に詰め便器に顔を浸けて死んでいた。状況からして事故の可能性もあるが、自殺として処理された。
もう一度壁を殴る。床に転がるケースを何度も踏む。そしてもう一度壁を殴った後、タバコを銜えたまま霊安室を出た。
道中、歩きタバコを諌める看護師を諭しつつ、屋上へ出る。真っ白なシーツが映える青天の下。燦然と降る太陽光に女性は舌打ちする。その太陽に紫煙を吐くと、何も変わらない自分を嗤った。
終
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