・僕ノ夢日記・
弐 - 僕の空言日記 -
「……う〜ん」ちらっと右隣の女子を見る。今日は消しゴムをちゃんと持ってきていた。でも、此処から見える筆箱の中に昨日の僕の消しゴムがあったのを見て、心の中でニヤッとして自分のお腹を擦った。
この教室は広い。四〇人にはもったいないほど広い。でも二人一組の机を寄せているスタイルは他と変わらない。一人ずつでも十分なスペースがあるのにペアになっている。
「どうしたのよ?」
「……うん」
「何でじっと見てんのよ?」
「……うん」
「……もう」彼女はすねるようにして問い質すのを諦め、前を向く。僕は目線を筆箱から、少し赤い頬へ変えていた。
彼女自身は僕の事をどうとも思っていない。ただ隣に座っている数少ない男子生徒。他の女子のように隣は同性の方が、話しやすかっただろうし楽しかっただろう。一々消しゴムの事で腹を立てることなどなかったし、胸を触られる事もなかったし、今も頬を赤らめることもなかった筈だ。僕が目線を送る事で授業に集中出来ず、成績が下がればそれは隣に僕がいる所為だ。彼女からすれば僕など、この教室には異質の存在だったのだ。どちらかと言えば要らない方が良かったのだ。
でも彼女は僕とラン()チ()するメンバーには入っていない。そこが『どうとも思っていない』ということなのだろう。鬱陶しくて邪魔なら乗馬鞭でぶっ叩けばいい。背中に何人まで乗れるか試せばいい。股間をスキャナーにかけて、プリントした紙を紙飛行機にして飛ばせばいい。溜まっている鬱憤をそういう形で晴らしてくれればいい。しかし彼女はそれらをしない。つまりは『どうとも思っていない』。
授業は淡々と進む。この教師は『えー』や『えっと』などを言葉の合間合間によくねじ込むので以前数えてみた。『えー』は八六回、『えっと』は五二回、『でー』が三五回。多分何回か聞き逃している。そして授業も聞き逃していた。
「……ねぇ、訊きたいんだけど」隣の女子が頬の色を戻し、神妙な面持ちで訊いてくる。ただ、何か皮肉でも言うような口調だ。
「なに?」
「あんたさぁ、何で授業を一つも聞いていないのにトップ争いに加わるほどなの? どうやって勉強してるの?」
「……訊かれてもなぁ……考えること、じゃないかな」
「そんな当たり前な」
「いやそうじゃなくて、人間性を」
「は?」
「結局成績なんてテストとかの一部分でしか評価出来ない。そのテストを考えてる奴は誰だ? 教師だ。その教師はどんな性格だ? この授業の教師は真面目だ。だけど抜けている。だから無難に黒板通りの事をテストに出す。何の捻りもせず。二時限目の歴史の教師は? 真面目ぶっているが、何処か腹黒さが表情に出ている。こいつはよく市販の問題集から問題を引用している。まぁ歴史なのだから数学みたいな柔軟性はないが、過去に一般的でない認識の問題を出した。それも問題集などではなくテレビでやってたモノを。あれは何も考えなかった結果だ。先に『説がいくつかあるような問題の場合、こちら側が出した答えが正解と言う事になります』と説明があるクイズ番組ならいざ知らず、此処は学校だ。本来なら曖昧な認識をテストに出すべきではない。まぁ向こう何回かは真面目に考えると思うけど、それでもは幾つかは全くの引用だと思うよ」
「……な、なるほど。で、でも、それだけであんたみたいになるの? あんたの言ってることって、前者はともかく後者は当てずっぽうじゃない。その前者ですら、私の最初の質問と矛盾してるし」
「……う〜ん……何となくだけど、今回はこれが出る、ってのが分かるんだよ。教科書の範囲内と照らし合わせて。確かに勘でって言うとそうなんだけど。後、質問には矛盾してるがそんなつもりは無かった。僕はちゃんと授業を聞いてる」彼女は呆れ返っている。とても付いていけない、という顔だ。『どうでもいい』のだろうけど。
「一応僕は宿題をちゃんとやってるよ。それで出来ているのなら十分じゃないか。わざわざ塾に行ったり家庭教師雇ったりしなくてもそれで出来るんだよ」
「それって厭味よ」
「そうかな?」
「えぇ十分。別に私は塾に行ってないし家庭教師も雇ってないけど、そんなのだけで無理よ。あんたやっぱり頭おかしいわよ」
「そうか。おかしいか」言い方を変えれば良かったかな。作り手になって考える、とか。でもま、おかしいんだろうな、うん。
僕がユペールで、バイトだとしても"従業員"として働いているのはお金を貰ってるからだ。お嬢にお付きが付いているのは給料が出ているからだ。何も好きでお嬢の身の回りの世話をしているわけじゃない。それなのに僕と来たら、お金なんて貰ってないのにお嬢の言う事は聴くし、それだけでなく取り巻きのランチにも付き合っている。生産性など一切無い行為だ。ただ"彼女らが掃いて捨てるだけ"。
「あ……ごめん、気に障った?」
「ん? 何が?」
「え……いや」
授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。しかし、授業そのものはチャイムが鳴る数分前に終わっていた。雇われの教師らしいやり方だった。
「都々木、ちょっとこちらへ」昼休み、お嬢が教室の角の席から僕を呼ぶ。さっき教室を駆け足で出て行った取り巻きの一人と入れ替わるようだった。
「何でしょうか?」お嬢は冷やかな目つき。取り巻きはこちらを睨んでいる。それらは毎度の事。
「少し部室へ行きましょうか」
「ええ? あ、はい」いきなりの提案に、拍子抜けする。
……しかしすぐには立ち上がらず、こちらを見ていた。僕はハッとして手を差し出した。するとお嬢は僕の手を取って立ち上がり、歩きだすと細い目付きで僕を一瞥してから和琴楽部室に向かった。
部室に着くまで両者無言。僕はお嬢の三歩後ろにいる。今はお嬢のお付きになっていた。
部室前に着くと僕が扉を開け、二人とも入ると扉を静かに閉める。
「少し開けておきなさい」
「はい……それで、どうされました?」と訊いてもお嬢は準備室の方に消えていく。そこはお嬢自身で引き戸の扉を開けた。そちらにはお嬢専用の"カフェ"がある。つまりは……。
「何しているの? 早くいらっしゃい」まずお茶を入れろとの事だ。
部室は畳廿畳の小上がりなので靴を脱がないといけないが、準備室へは迂回して行ける。準備室とは名ばかりの、お琴には合わない洋風な場所。こんなレンガ造り……湿気の多い日本には合わない。此処の扉も少し開けておいた。
「何を淹れましょうか?」
お嬢は何も言わず、特等席に座ってテーブルに肘を立て、窓の外を流し眼で睨んでいる。そこは校庭で、女子生徒が様々な方法で暇()を()潰()し()て()い()る()。
「……マリアージュフレールのハーブティーを淹れますね」それは僕が買ってきた甘い香りのするブレンドティーで、お嬢には甘過ぎると不評ではあったが、僕が淹れるお茶は何でも飲んでくれる。それは凄く嬉しいことだ。
出るまで少し時間がかかるが、その間もお嬢は何も喋らず校庭を睨むだけ。そろそろ時間だと透明なカップに注ぎ、お嬢の前に置く。それには反応して口許へ運ぶ。
「……おいし……」嘘なのを知っている。でも、お嬢が今一番欲しかったのは『口に合わない紅茶』だ。機嫌が悪い時は徹底的に機嫌を悪くするのがお嬢の遣り方。
「貴方の好きなところは、人に同調させるところよ。それで私の好みも考えも分かってくれる。人の事に介入せず、邪推もしない」お嬢は何でもお見通しだ。最後の邪推しないってのは……お嬢に対してだけだが。
「……貴方の嫌いなところは、自分が無いところよ」それを告げると再び無言が数分続く。
「失礼します。お嬢様、持って参りました」入ってきたのは教室で入れ違いになったお嬢の取り巻きの一人。昨日、僕に最初に話しかけてきた女子だ。二人分のお昼ご飯を持っている。彼女は僕を見てギョッとしたようだが、すぐに視界から僕を消した。
「はい、ありがとう。都々木に渡しなさい」
「あ……はい」彼女は渋々僕に渡す。お昼ご飯を用意しろとのことだ。此処にはちゃんと台所がある。わざわざお皿に盛りつけるのだ。
「そこに座りなさい」お嬢は彼女に同じテーブルに付かせる。二人でランチらしい。
「何椅子に座っているの?」
「はい?」
「そこは都々木の場所よ。貴女が座るのは、床」二人とは、お嬢と僕らしい。
彼女は大人しく床に座る。姿勢はいいけど、視線は自分と同じ床へ。
お嬢はまた校庭へ眼を向けた。三度口を閉じる。
「お待たせしました」盛りつけた料理をテーブルへ。これだけで、学食の弁当がせいぜいレストランのランチには見える。
「いただきましょうか」その言葉は僕に向けられた。床の彼女は黙って、下を向いたまま。表情が少々怯えているように見える。
昨日と違い静かなランチだった。誰かが罵る声も、誰かが呻く声も、誰かがあげる悲鳴も聞こえない。でも、段々と何かが聞こえる。これは……心音だ。段々と早くなってくる。足下から聞こえてくる。心音は床の彼女だ。よく見ると汗をかき、手をギュッと握っている。その状態が僕とお嬢が食べ終わるまで続き、その頃には彼女の顔は泣きだしそうだった。
「ごちそうさま」
「お粗末さまです」僕は唯盛りつけただけだが。
食器を下げ、流し台に置く。食後もちゃんとお茶を淹れる。淹れてから僕は食器を洗って片付ける。
お嬢はそれが癖であるかのように校庭に目を飛ばす。床の彼女は相変わらず震えている。
お嬢は食後の紅茶をある程度飲むと、身体を彼女に向けた。
「ねぇ」お嬢はローファーの爪先で彼女の膝をコツンと突く。
「ひっ?!」妙な怯え方だ。それほどお嬢が怖いか?
「立ちなさい。戻っていいわよ」
「は、はい!」
「お昼ありがとう。ごちそうさま」
「失礼します!」彼女は逃げるように早足で準備室を去っていった。扉をちゃんと閉めて。廊下からは走る足音が響いてくる。
「……怯え過ぎね。あれが、自分を持っている結果よ」
「……」お嬢は僕にあんな対応を望んでいるのか? そんなわけないだろう、お嬢の僕への対応は、それの対にない。
「……都々木、今日はもう授業に出席しなくていいわ。私といなさい」すぐに了承する。こんなのは一度や二度じゃない。機嫌が悪い時はだいたいこうだ。しかし、取り巻きの一人を床に座らせてただ怯えさせるだけで帰らせるなど、悪趣味な行為は初めてだ。
「……ねぇ、琴爪は買った?」
「はい。安物ですけど」
「そう……」
「……お茶菓子、何か持ってきますね」確かロイズの生チョコが冷やしてあった筈だ。これも僕の好きなホワイトの生チョコなのだけど。
お嬢は細身のフォークでチョコを口に運ぶ。その一連の動作は、何処か艶めかしく、僕の顔を赤くさせることぐらいは簡単だった。
「……好きなのね」
「……」それは何に対してなのか……生チョコに対してか、お嬢の食べ方か、それとも……お嬢自身か……。
時間は流れる。何もせず、ただ優雅にお茶を嗜む。何ともお嬢にピッタリな時間だ。僕はただそれに付き従うだけ。そこに僕()自()身()はいない。お嬢の嫌いな僕の無い僕。
「……私も好きよ」……となると、答えは限られる。生チョコに対してだ。僕が持つ正しい日本語の解釈としては、そうなってしまう。だけど、それを作ったのは人間。改()竄()するのも人間。お嬢の日本語は、はたして僕と同じ日本語なのだろうか。
お嬢の表情は滅多に変わらない。それはお嬢に対してアクションを起こす人間がいないからだ。決してお嬢が冷酷なのではない。どんなに面白い話でも、何度も聞いていれば腹が立ち、笑顔とは程遠い顔になるだろう。お嬢が求めるモノ……それは冒険だ。
「都々木、あれをどう思う?」お嬢が指したのは授業をさぼり、愛引きをするカップル。
「……二人は恐らく誰の許可なく授業をさぼり、愛引き。学園の規則上悪い行いです。が、お嬢様は『どう思うか?』を"僕に"訊いてきました。僕が思うあ()れ()は、所謂『青春』なんでしょうね。大人になってしまえば様々な制約・責任に縛られ、あのような無責任な行動は取ろうと思って取れるものではありません。この年齢ならではの行為ではないでしょうか」
「……そうであるなら、私達も同じだと思わないかしら?」
「違います。僕達はお嬢様の許可があります。それだけで十分じゃないですか?」
「私に何の権限があるって言うの? 私はただの学生よ。"お嬢様"ってだけ」これはお嬢なりの冗談か。
「青春……文字通りね。でも私はそんな事を訊きたいんじゃなくってよ」
「……僕はアレを絵にしたいとは思い」「勝手に喋らないで」
……下手に勘ぐったのが駄目だった。しかも見当違いだ。顔から火が出そうになる。
「あれを羨ましいと思う?」意外な発言。
「……あれを羨ましいとは思いません。彼、彼女に授業をサボってまで価値あるものなのかどうか、僕には思えません。しかし……」
「……」お嬢は僕の眼を見つめている。表情一つ変えず、僕の言葉の続きを待っているようだ。しかし……僕は何が言いたい? しかし? 何だ?
「……誰なら、その価値はあるの?」
「え?」
「私には、他の誰かなら授業をサボってまで愛引きをする価値はある、という風に聞こえたけど? それは誰かしら?」
「……それは……いえ、僕はただ、羨ましくあると言いたかったのです。一般的に青春とは今僕等の年代で味わうべき、訪れるべき時節ではないのでしょうか。だから、それが過ぎ去るまでに味わいたいと思う上で、羨ましいと思うのです」
「……なるほど。貴方は青春を季節であると、そして同時にチャンスであると言いたいのね」
「その通りです」
「しかし、私が見てきたものから考えると、その季節さえ、チャンスさえ与えられない者もいらっしゃるようだけど?」
「……かもしれません。『季節』と言う言葉で纏めると、この三年間とはあまりに短すぎるでしょう。しかしそれを『チャンス』に置き換えるとどうでしょうか。授業をサボって愛引きするだけが青春ではなく、部活動それぞれに青春は用()意()されているでしょう。それは"ただ只管励む"だけであったり"大会で優勝する"ことであったり"発表会で自分の力を出し切る"ことであったり……無論人により他にもあるでしょう。数年、十数年、数十年後の為の努力が丸々青春になるかもしれません。いえ、そうかも。先述べたのと違えますが、それが全てなのかもしれません。人とは実際他人なしでは生きられません。この服だって、この紅茶だって、窓の景色だって……僕やお嬢様が作ったものではありません。勿論この部屋のデザインを思考なさったのはお嬢様でしょう。こうすればお嬢様好みに、こうすれば過ごしやすく、その思考はお嬢様自身のもの。しかし、その素()材()を作ったのは、その素材を作り上げるまでに至ったのは、いったい誰か? それはお嬢様、僕以外の誰かです。一人で生きることなど、あり得ません。そして人と過ごす上で必要となるのは? 言葉です。文字よりも先に言葉が出来ました。言葉がするのは会話です。そしてその殆どは無駄話。ただ暇を潰し、出来るだけその時を共有する。それが青春なのです。僕にはこんな青春があった。私にはこんな青春があった。その為に存在するのが青春なのです。ただ、これは極論と言えなくはないですが」
「……もういいかしら?」
「……はい」お嬢は此処まで割り込むことなく訊いていたが、その言葉で一気に僕の考えを塗り潰されてしまった。僕の言葉を聞き入っていた訳ではないらしい。
「まぁ、貴方の現時点での考えを聞くことが出来たわね。その考え方、捨てないでおきなさい」
「……はい」何を言わせたかったんだ? いやまぁ……そう言うことだろうけど……。「さっきも言ったように、青春には様々な形があるでしょう。何も愛引きだけが男女間における青春ではありません。男女二人で過ごす時間自体がそれと呼べなくもないでしょうか? 僕にとっては、今この瞬間も青春と呼んでもさして違いが無いように思えます」
「あらそう」軽くあしらわれる。この答えじゃなかったのかな。
お嬢は表情を変えない。だけど、その代り仕草を変える。例えば景色を見る時は流し眼をせず顔ごとそちらに向ける。カップの持ち方が柔らかくなる。アウトソールの減りが少なくなるなど、細かい部分にそれが出る。もしそれが出た時は、機嫌がいい時だ。
今日は思いの外時間が経つのが早い。お嬢に呼び出される日は殆ど何もしないから時間がゆっくりに感じるんだけど、何故だか今日は早かった。お嬢も機嫌が直ったようでなによりだ。
「後廿分ぐらいで都々木担当の方がいらっしゃるわ。期待しておきなさい」
「?? はぁ」何を期待しろと言うのやら。お嬢の事だから不器量なのは連れてこないとは思うけど……。
僕はとりあえず濃い緑茶を入れた。お嬢も僕もお茶全般が好きだ。僕はコーヒーでもいいのだが、お嬢がコーヒーなんてただの泥水だと言い放つので、お嬢の前でコーヒーを淹れるのはNGだ。
そんなこんなで時間が来てお嬢が調律をしていると、廊下から足音が響いてきた。革靴の音ではない、学園には異質なピンヒールの足音。
「失礼します」何だか緊張気味の上ずった声だった。それを聞いたお嬢は、調律を済ませて扉へ振り返る。
「どうぞお入り下さい」扉が開いた瞬間、僕はドキッとした。
「今日から都々木さんを担当させていただきます嶋原()です。よ、宜しくお願いします」
「あ、ぼ、僕が都々木です。宜しくお願いします……」さて何故僕が"ドキッ"としたか、それは何も彼女が綺麗だっただけではない。ビジュアルの面では店長の方が僕的に好みだ。そうではなく、服装が凄く際どいのだ。程よく大き目の胸を肌蹴させ、股下指何本分かという短くタイトなスカート。そこからガーターストッキングが、そして僕の予想通りピンヒールを履いていた。十七センチほどのヒールに七センチほどのプラットフォーム。さぞ歩きにくかっただろう。長い髪は後頭部に束ねて、黒の下縁眼鏡をかけている。僕はそれを確認した瞬間、お嬢の顔を見た。絶対この恰好はお嬢の注文だ。
「宜しくお願いします。早速こちらの方へお願いします」
「は、はい」嶋原はヒールを脱ごうとするが、際どいスカートを気にしてモジモジとするので余計に艶めかしく写ってしまう。せめて僕は見ないでおこうとお琴の方に顔をやるが、この和室にはてんで不似合いなその妄想上の女性教師のような恰好は、視線を吸い寄せる力は存分にあった。
「お話は聞いています。発表会で吉松隆の星夢の舞を演奏なさるんですよね? 十七弦と廿弦を」
「え? 廿弦?」
「はい、そう聞いておりますが」……まぁいいか。そう言えば『笙と二十弦の為の』とか『尺八と二十弦の為の』っていうのもあるから、まぁやってほしいと言われれば、やりますとも。
嶋原は相変わらずスカートの裾を気にして全然集中出来ないようだ。仕方ないが、何故お嬢はこんな事をした? 本当に発表会を成功させたいならこんな悪ふざけはすべきではない。胸の谷間も凄いし、ラメもふっている。それもお嬢の指示だろうか? 目が行かない訳がない。しかもブラジャーを付けていないようだ。
と、いうことは、だ。
下は?
いそいそと必死に隠している下は?
穿いていない?
お嬢の顔を見る。お嬢は何も表情を変えない。
「都々木は過去に習っておりましたが、ブランクがあるのでとりあえず基礎を教えてやって下さい。曲目は今回のだけでいいので。では先生、宜しくお願い致します。私は準備室の方におります。何かあれば仰って下さい。一応調律はしてありますが、そこからお願い致します」
「はい、わかりました。で、では都々木さん、始めましょうか」彼女の眼を見る。やっぱり眼鏡は伊達だった。
……お嬢は準備室に入ったきりこちらには顔を出さない。嶋原は相変わらず裾を気にしているが、指導は怠らない。僕がちゃんと出来た時のニコッとする笑顔は事務的でなく、普段はちゃんとしたお琴の先生であることを窺わせる。
最初の三十分ぐらいで調律と楽譜の読み方、弾き方など本当に基礎の部分をやったところでいきなりハードな曲目。まぁ最初なのでただ楽譜通りに弾くだけ。お琴の下を叩いたりはしない。というかそこまでいかない。同じところの繰り返しだ。ブランクがある所為か、曲自体が無茶なのか……一回目なのだからこんなものだろうと。
「一時間経ったし、一度休憩しましょうか」
「あ、はい」多分、普通に、こんな恰好せず普段通りに彼女に習っていたら、憧れの先生になってたんだと思うくらい、笑顔が素敵だった。しかし眼を落せば、まるで誘惑しているような艶姿。僕の下腹部は中々の張り詰めでして。気を紛らわせようと僕から切り出す。
「何か、紅茶でも淹れましょうか? こう見えても紅茶が好きで、自分で言うのもなんですが、僕が淹れた紅茶は美味しいですよ」
「あらうれしい。それじゃあ頂こうかしら」彼女はだんだん今の状況に慣れてきたか、最初ほどは裾を気にしなくなっていた。やっぱり気にされるから僕も気にしちゃうわけで、僕もそれほど目が行かなくなっていた。それでも……なのだけど。
お嬢のいる準備室に入ると、お嬢は人間工学に基づいて作られたリクライニングチェアでお昼寝中だ。普段は絶対に見せない寝顔を僕は覗き見ながら少し下がってしまったブランケットをかけなおす。絶対に見せないといっても、それはここ以外での学園内でのこと。僕が知りうる限り、お嬢の寝顔を見たことあるのは僕と、お嬢のお付きと、お嬢の個人講師だけだ。
それにしてもどうしよう。紅茶もあるが、下腹部だ。とりあえず何ともならないので位置を直してから綺麗に手を洗い、紅茶を保管してある棚の前に立つ。さて何の紅茶を淹れようかと思うとロータスティーが目に留まる。確か一口サイズのケーキがあった筈だと思いだしてそれに決める。
一度部室の方に顔を出し「先生はイチゴとチョコレート、どっちが好きですか?」と好みを訊く。
「え? んーと……イチゴかな」その瞬間も裾を気にしたが、表情は何食わぬ顔。無意識だったのだろう。
淹れるとそれらトレイに乗せて持っていく。このケーキは、お嬢のお付きが定期的に補充しているのだ。ケーキの種類はお付きにお任せしている。
「あらケーキまで頂けるの? おいしそうね」
「ロータスティーを淹れました。フランスなどではケーキに合うとして一般的な紅茶なんですよ。香りが良いベトナム北部の蓮を使っています。どうぞ」
「うん、いただきます。都々木さん詳しいのね」
「単純に好きなのもありますし、今喫茶店でアルバイトしていて、それで詳しくなったって事もあります」
「へえ。じゃあ将来はギャルソンとかかな?」
「まだ、そこまでは考えていませんけど……」と言いつつ、ユペール店長の横に立つ僕を想像する。やっている事は今と変わらないのだが、それは何処か幻想的で、少し本気になった。
「うん、良い香り。バラみたいな香りね」
「あ、最初は僕を思いました。でも段々と蓮本来の香りが分かってくるんですよ」
「うん美味しいわ。流石ね。今度貴方の働いてる店行こうかしら」
「ぜひどうぞ。夜七時からは創作料理屋になるので料理も楽しめますよ」
「いいわねぇ。今日は都々木君入ってるの?」
「はい。来ますか? 今夜」彼女は随分とノリの良い人柄で、恐らく誰とでも気の合う人なのだろう。人見知りの激しい僕とでも此処まで話してくれるし、此処まで踏み込んでくれる。
「えぇ、行きたいわ。場所教えて」
僕は学生服の内ポケットからメモ帳とペンを取り出し、住所と簡単な最寄り駅からの地図を記した。
「う〜ん……ごめん、私方向音痴だから迷っちゃうかも。良かったら……迎えに来てもらっても、良いかしら?」一瞬、ドキンッとしてしまった。今の仕草、言い方が凄かったのだ。うむ。
「え、えぇ、良いですよ。じゃあお店の電話番号も書いておきますので近くに来たら電話お願いします。迎えに行きますので」
「うん。楽しみにしてるわ」
……どうも僕の周りには、魅力的な女性が多いようで……。
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