・僕ノ夢日記・

  参 - 僕の労務日記 -


 この学園、実は小中高一貫の総合校だったりする。だが僕は高校からで、以前さわりだけ語ったと思うが、僕が入った年から共学になり、途中から入れたのは最初の年だけの特権だった。
 小中高それぞれと、高校三年生とで棟が違うため殆ど授業などで会うことはないが、部活によっては一緒に活動する場合もある。和琴楽部もその一つで、お嬢専用でない普通の部室の方には小中高校生入り乱れて部活動をしている。
 どうやらこの嶋原という女性講師はそちらの方の顧問をしているらしい。だが彼女も学校関係者ではなく、お嬢が選んだ特別講師。そして今は僕の個人講師になり、和琴楽部には他の講師が付いているようだ。だからこの学園の部活動を知らなかった僕が嶋原の事を知らなかったのは当然で、あちらも僕の事を知る筈がなかった。
 休憩を終えてお琴の練習を再開する。一度休憩を挿んでしまった事で集中力が途切れてしまった。何やら、下腹部の膨張率が凄い事になっているような気がする。だから余計に胸や足に目が行く。
「じゃあ続きをやりましょうか。まずは此処から弾いてみて」言われたとおりに僕は弾く。
 考えないようにしていたが、彼女は良い香りだ。これはゲランのオーデトワレだろうか? ふんわりとしながら仄かに爽やかなこの香りはオムだろう。女性でも愛用者が多い……が、これもお嬢の指示だろう。お嬢が選ぶ香水はほぼゲランだ。たまに例外としてこれやあれやと選ぶこともあるがゲランで安定。実を言うと僕もこのオーデトワレを使っている。お嬢に言われてだが、素直に気に入っている。
 でもこの香りはオーデトワレだけではない。嶋原自身の香りも相俟って、些か官能的で僕の何かを刺激する。
 しかし不思議なモノで、お琴に集中するとそんな事は忘れる。『美人は三日で飽きる』とはよく言ったモノで段々と慣れてくるのだ。余談だが不器量は一秒で腹が立つ。
 と言ってもやはりたまに思い出す。集中が不意に切れると途端に嶋原女史の香りにやられて胸元が見え、太腿が危ない……残りの時間、何度も膨張・収縮を繰り返した。お陰でボクサーパンツの下はやばい事になっている。
 時計が午後五時を回ったぐらいからお嬢も参加し、僕が習った最初の部分だけ一緒に演奏する。その瞬間、何だか嬉しくなった。昔を思い出して懐かしくなったのもあるが、誰かと……お嬢との共同作業なのが嬉しかったのだ。
   リンゴーン リンゴーン
 午後六時の鐘が鳴る。殆どの部はこの鐘を目安にしてその日の活動を終える。だから僕達も鐘が鳴った事で今日の練習を終えた。
「はい、今日は此処までとしましょう。都々木君この後バイトなのよね? 片付けは私がやっておくわ。いってらっしゃい」
「あ、はい。じゃあ、お嬢様、先生、お疲れ様です」
「えぇ。ごきげんよう」
「お疲れ様」
「お先に失礼します」僕は部室を、そして学園を後にした。
 一度自分の寮に戻る。着替えるためだ。学生服のままお酒の飲める小料理屋へ出勤するというのは、なんだか嫌だ。そしてその道中ユペールに連絡を入れる。部活が終わり、寮に戻ってから向かうとの報告を。
 バイト先に着いたのは午後六時半。この時間は喫茶店のお客を捌きつつ、店長は創作料理の下準備を進める。料理の下準備だけでなく、食器も丸々入れ替えるのでそこは僕の仕事だ。客を捌いているのは同じバイトの麻倉あさくらさん。料理は主に店長と、過去に洋食屋で務めていたという萩谷はぎやさんの二人で回すが、少し落ち着いてきたら店長は表に出てウェイトレスも兼ねる。店長と話をしたい客も多いし、店長自身話すのが好きらしく楽しげに気疲れもせず客の相手をしている。
 とりあえず今は準備中。でも店自体を閉める訳じゃないのですでに席を取っている客もいる。そして表に居るのは客だけじゃなく、今日はジャズバンドもいたりする。週末は毎週のようにジャズ演奏が行われるのだ。
 店長には電話がかかってきたら迎えに行く事を伝えている。必要無いだろうがカウンターの一席を予約した。テーブルも考えたが、バンド演奏中は満員になる中テーブル席を一人で使わせるのは気を遣わせることになると思い、そうした。ただ一人で来るとは限らないが、その時はその時。
 そろそろ時間になり、疎らに客が入っている。お酒が飲めるところなので、ピークは九時〜一〇時ぐらいだ。会社帰りだったり、カップルだったり、良く分からない人だったり、こういう場所には色んな人間が訪れる。しかし、迷惑な客はほぼいない。萩谷さんが言っていたが、経営者が変だと客も変なのしか来ないらしい。そう言った顔は遠くを見ていた。
 店のアンティーク時計が七時三七分を差すと、嶋原女史から電話が掛かってきた。
『忙しいとこごめんね』
「いえいえ、一段落ついたところです。何処に行けばいいですか?」
『あ、迎えはいいわ。実は行くの私だけじゃないんだけど、場所を知っているらしいのよ。だからもうちょっとしたら行くわね』
「わかりました。何名ですか? テーブル席取っときますけど」
『えっとねぇ……私入れて四名……あ、ごめん、二、二で分けてもらっていい?』
「わかりました。じゃあ、お待ちしてますので」
『はぁい。後でね』
「はい。あ、八時からジャズバンド演奏が行われますので」
『へぇ、じゃあ、それまでに行くようにするわ』
『はい、失礼します』切り、店長に報告。
「迎えに行くの?」
「いえ、一人だけじゃないみたいで、一緒の人が此処を知っているみたいなんで。四名なのですが、二名二名のテーブル席で、とのことで」何だこの変な文章は。でもだいたいこんな感じだ。年上の人としゃべる時は。主語が無かったり、ニュアンスだけで伝えたり……でも、さっきの嶋原女史の言葉もそんな感じだったと思う。普段のあの人は、結構適当な人なのかもしれない。とりあえず僕は端の四人用の席を二つに分ける。
 バンド演奏は決まった時間に行われる。まず一回目は先程嶋原女史に告げたように午後八時からだ。それ以降も一時間毎位と大まかに決まってはいるが、だいたいその時の気分で演奏の長さが決まるためそれは目安でしかなく、それが分かっている客は八時までに入店している。
 電話があってから十分くらいだろうか。ユペールの扉が開いた。そこにはこの季節らしい格好の年上女性一人と、スーツ姿の黒人男性二人、そしてワンピースにジャケットで派手過ぎないアクセサリーを施したお嬢がいた。あのトリコロールカラーのジャケットはドルガバか? 靴はそれに合わせたであろうパンプス。それも恐らくドルガバだ。お嬢にしては珍しいブランドチョイスだった。
「あ、いらっしゃいませ。席はこちらになります」とりあえず案内。正直言って何となく予想出来た。あの部室を出る時の何も思ってなさそうな普通の顔。ずっとお嬢を見ている僕には、何となく想像出来た。だけど何となく予想しただけだから、もし確信したものだったら、デニム素材のフレアパンツなんて履いて来なかっただろう。
 席はお嬢と嶋原、お付き二人で別れた。壁側に嶋原女史が座り、お嬢は壁を向く席に座った。
「此処が都々木の……いい場所ね」席に着いたお嬢は店内を見渡し、呟く。
「えぇほんと。こんな場所で働けるなんて羨ましいわ」嶋原は部室での艶姿とは違い、髪型こそは一緒だが伊達眼鏡を外し、勿論下着をちゃんと着け、大きく胸元を空けていたブラウスや指何本分かと言うミニスカートではなく、あれと比べると全体的に若々しく、ボタンの柄が入れられ裾がフリルになっているシャツに、タキシードジャケット、今夏流行りのサルエルパンツ、光沢のある銀色でヒールが一〇センチぐらいのパンプスと、あの時とは全く違うイージーな格好であった。
 マリンスタイルとイージースタイル……もしかして嶋原女史のコーディネイトもお嬢か?
「こちらメニューになります」四人に渡す。お付きの二人もジャケットを脱ぎ、リラックスしている様子。どうやら今夜は仕事を忘れていいとお嬢に言われたのだろう。護身具も目立つ場所には身に付けていない。
「都々木、二人にはノンアルコールビールを。先生は」お付きの二人は運転しないといけないからか。
「えっと、じゃあ生中で」こっちは完璧にOFFモードのようだ。
「私はメロンソーダ」可愛らしいものを選ぶ。というかお嬢、そちらに座りながら自分で注文するんですね。本当はお酒が飲みたいのではなかろうか。
 お嬢はこの年にして酒豪だ。しかも顔色が変わらないため見た目では飲んでいるのか分からない。足取りもしっかりしている。多分自分の部屋に入ってしまえばぶっ倒れるのではないだろうか。ずっと緊張状態に居るようなものだ、その時の解放具合は相当なものだろう。
 ひとまず注文を告げに厨房に戻る。そしてつきだしを持っていこうとしたとき、店長に声をかけられる。
「ね、どういう関係?」ボーンと肩からぶつかってきて、何やら楽しそうに訊いてくる。確かに、あの四人はあまりにバラエティ豊かに見える。大人の女性に長いサラサラ髪の少女、そして黒人二人。どう取ればいいのか分からない四人だ。
「学校の同級生と、部活の顧問です。黒人の方は同級生の方のお付きで」
「お付き?」
「えぇ、ボディーガードです。彼女、僕もあんまり知らないんですけど、どこぞのお嬢様でして。一度誘拐騒ぎがあってから学校と自宅にいるとき以外はずっと一緒にいるんです」
「は〜。じゃあ仕方ないわよねぇ。でも凄く可愛い子ね。綺麗でオシャレだし。誘拐したい気持ちを分かるわ。ンフフ」
「アハハハ。えぇ、僕の普段の格好も、彼女にアドバイスされたものが殆どでして。だからちょっと、年齢に合わないような格好してるんですよ。このブーツだって、お嬢に言われて履いたんです。僕にイヴ・サンローランは持て余します」
「あら、いつもより背が高いと思ったらそんなの履いてたのね。でも似合ってるわよ。都々木君脚長いし。あの子もそう思ってアドバイスするんだろうし。そっかぁ、あの子がコーディネイトしてるのかぁ。気に居られてるんじゃない? そうじゃないと何も言わないわよ」
「ですかねぇ。まぁ他の男子の扱いを見ると、そうかもしれません」
「いいわねぇ。青春ねぇ。おばさんもときめいちゃうわ」
「おばさんなんてそんな……」それを言った瞬間、居辛くなってやっとつきだしを持っていった。注文したドリンクも出来たのでそれも一緒に。その頃にはバンド演奏が始まろうとしていた。
 早速お嬢らは乾杯を始める。嶋原女史はグイッと中々の飲みっぷり。お付きも普段見せない顔でお互い喋っている。英語なので何を言っているのか分からないが、二人の笑顔はお嬢の笑顔よりレアなものだ。そのお嬢は一口メロンソーダを飲むとバンドの様子を窺っている。
「ほんと、良い場所ね」と言った瞬間のお嬢は、バンドではなく店長を見ていた。
 演奏が始まった。客は一斉にバンド演奏に釘付けになるが、中にはヒソヒソと話しているグループもある。萩谷さんの言葉では、「無論、変な人は何処にでも現れる」とのこと。
 嶋原女史は早くも三杯目に突入する。その頃には嶋原の顔は真っ赤になりシャツから覗く肌も真っ赤で、あの時とは違う艶美さが僕の視覚を奪い、少し仕事を忘れた。するとお嬢に足を踵で踏まれる。どうやら今の嶋原女史のファッションにはそういう意図は無い様だ。踵跡が甲についてしまった。帰ってちゃんと手入れしないと。いくら元値より安く買ったとはいえ、それは僕の一ヶ月分だ。生涯履くつもりでいるのだが、お嬢にはジョニーブーツだろうが一八〇円スニーカーだろうが関係無い、僕が下品な時は踏む。僕は別の客の注文を聞きに逃げて行った。
 演奏が中盤に入り、店内の雰囲気が落ち着いてきたころお嬢はカウンターに歩いて行き、表に出てきた店長になにやら話しかけていた。僕はその時他のテーブルに料理を持って行っていたため、何を言いに行ったのか分からない。その瞬間のお嬢は、お付きほどではないにしても、滅多に見られない笑顔だった。まぁだいたい年上の女性に話す時は笑顔だ。そして厨房から萩谷さんも出てきて何か話している。お嬢の事だから、料理が美味しいという事を告げているのだろう。僕がカウンターに戻る頃にはお嬢は席に戻り、談笑を再開する。お嬢と嶋原女史は意外にも合うらしい。
「あの子、見た目だけじゃなくいい子ね。料理の事も言ってくれたし。都々木君、手放しちゃ駄目よ」
「あははは、そう言われましても……」お嬢にはもうすでにいますから。
「えっとね、あの子からの頼みなんだけど、あの子達が帰るまではあの子達専属でって」
「えぇ? そんな事言ったんですか? でもそれだと……」
「店の方は大丈夫よ。私もそろそろ出ようと思ってたし。折角都々木君が連れてきてくれたお客さんなんだから。都々木君が接客しなくちゃね」
「……わかりました。ありがとうございます」お礼を言うのはおかしい様な気がしたが、何も言わないのもどうかと思ったので……お嬢を見ると、あちらもこっちを見ていた。どうやら僕を呼んでいるらしい。
「はい」
「都々木、案内しなさい」はばかりの事だ。案内するほど分かりにくくないと思うが、何も言わずに手を差し出し、案内する。パーティション代わりの短い通路を行った先に扉がある。男女分かれていないが、通路手前で僕は立ち止まる。しかしお嬢は、中に入れと支持するので、僕は中にまで入り、扉を開ける。
「……ありがと」此処までする必要はあるだろうか? どういうことだ?
 お嬢が個室に入り、僕が扉を閉めようとするとお嬢は扉を押し停め、僕を引っ張り込んでから扉を閉め鍵もした。
 予想外の出来事に僕は抵抗せず、壁を背にお嬢に迫られる形となった。
「……お嬢様、何を……」とか言う僕は至って冷静だ。その言葉に理由を訊き出そうとする気はない。
「……今日の私はどうかしら?」それは今日のコーディネイトのことか? それとも今日の立ち居振る舞い?
「お嬢様のマリンスタイルは、僕にとって新鮮で素敵です。でもそれを脱いだワンピース姿はコケティッシュで、それも素敵です」こんな事をしているのに、相変わらずお嬢は無表情。かく言う僕も無表情。
 どうすればいい? こんな時どうすれば?
 襲えと? お嬢を? ふざけるな、お嬢はそんな事望んでいない。お嬢はお嬢でしかない。何者にも染まらない。お嬢がでいることなどまず無い。
「……まだまだね」そう言って、お嬢は背伸びをする。段々とお嬢の顔が僕に近付いてくる。今日はお嬢に言われて僕が買ったイヴ・サンローランのジョニーブーツを履いている。ウエスタンブーツをモデルにしたそれは6.5センチのヒールがある。お嬢の背伸びは通常より高く伸びなければ僕に唇を合わせられず、僕は少しかがむことにした。
 二人は唇を合わせた。お嬢が何を思っているかなんて僕は知らない。お嬢がそう望み、仕掛けてきたのだから僕はそれに従うまでだった。
 お嬢は、流石に眼を瞑ってはいるが、表情はそのまま。この先の行為でもこの表情のままなのだろうか?
 両者の唇は少し開き、食む様にして何度も合わせる。そして僕の中で何かが開いていく。唇ではない何かがゆっくりと開いて何かを覗かせる。それが何か分かる直前、僕は舌を伸ばしてお嬢の唇に這わせ、それがノックであったかのように、お嬢も舌を伸ばして僕に絡ませてきた。考えてみたら、これが僕の初めてだった。
 と、店の方が異様に盛り上がっていた。これは演奏で盛り上がっているのではなく、恐らくお付きの一人がステージに立っているのではないだろうか。
 と言うのも、お付きの片方、僕にケイタイを渡してきた方、愛車が塗装面でドレスアップされたニューMINIの方、座っていた席が壁側ではない方、お嬢の隣に座っていた方は実は大道芸が特技なのだ。何かに所属していたとかではなく、完璧趣味で。特にボールを使った芸が得意で、ボールの形をしていればどんなものでも使える。スーパーボールでピアノが弾けるし、地面を使ってのお手玉をラグビーボールでやったりする。しかしお嬢が見ている前ではやってくれない。理由は知らない。
「……やっぱり始めたのね」でもお嬢は知っている。「もうちょっと、こうしていましょ」それには賛成です。
 初キッス時の味としてしばしば"甘い"だのと表現されることがある。ただまぁそれも地域性があって、シトラスだのと爽やかな味を表現する人間もいれば、素直に相手が直前に食した物の味を言う人間もいる。
 お嬢とのそれはどうだろうか? しばしば言われる"甘い"というのはどうも間違いではないらしい。これはどういうことか? そう、お嬢とのそれは甘いのだ。だけどそれは糖分の甘味とかではない。味覚が狂っている。脳が混乱しているのか?
 ……だけど、お嬢はそれ以上には行こうとしない。店の方が一段落するまで、ただ唇を重ね、舌を蛞蝓の様に絡まし這わせるだけだった。

 まだまだ仕事中だが、夕ご飯も兼ねて僕はお嬢らと一緒に食べていた。と言っても僕以外はほぼ飲むだけで、特にお付きのステージに上がった方は他の客と喋っていた。しかも仕事中には絶対に見せないフランクな表情と言動で、なるほど彼も人間であることを証明する光景である。お付きのもう一人はと言うと、彼は嶋原女史と話していた。嶋原は英語が喋れるわけではないが、知っている英単語を並べてそれなりに会話を弾ませている。嶋原はすっかり出来上がっており、うちにあるビールサーバーを切らさんとする勢いであった。お嬢はそれらの輪に加わる様子はなく、嶋原とお付きを二人にさせましょうと僕をカウンター席に誘い、すっかり汗をかいたコップを眺めている。それに付き添っている僕はカウンターで夕食を食べていることになる。
 週末と言う事もあり、ほぼ満員。だからそれなりに忙しい。それでも全体的に注文は落ち着き、僕がいなくてもちゃんと回って、僕は落ち着いてお嬢との食事が出来る。
「ねぇ、ルル・ユペールさんは結婚してらっしゃるの?」
「えぇ。五歳になる娘さんもいます」
「そう」お嬢は店長に興味津々の様だ。
 にしても、またやばいことになっている。何がって、部活中と同じ場所がサ。しかもさっきは、わざとだろうがずっとお嬢の身体で擦られていたし、初めての事で感情の昂りもある。今思えばよく耐えたものだ。まぁそれが、お嬢の望む事だから。
 その後、お嬢が僕を呼ぶことはなく、ただ嶋原女史がお酒の追加注文をするのみとなり、それが全部で二七杯になるころ、そろそろ帰る様子だった。
 嶋原はすっかりで、立ち上がれない訳ではないようだが、前がちゃんと見えているのかどうかも疑わしいほどだ。どうやら勘定はすでに済ませていたようで、僕の役目は見送るだけだった。
「ごちそうさま。美味しかったし、楽しかったわ。また来させて頂くわね」お嬢は笑顔で店を出て行く。お付きは仕事の調子に戻り、一瞥してから店を出、もう一人は嶋原に肩を貸しながら出て行った。その嶋原は惚けた笑顔で去っていった。あんな姿の教師も、たまにはいい。
「面白い人たちだったわね。あの様子だと、都々木君学校楽しそうでいいわね」
「アハハ、そうですね、それなりですよ」我ながら意味の分からない返しだった。
「休憩入ってきて。その後私も入るから」この一瞬、大人のにおいがして嫌いだ。
 休憩室と言うと味気ない、簡素なロッカーと手洗い場と灰皿があるようなイメージだが、そんな何処ぞのチェーン店の汚い雑貨屋みたいな場所ではない。表の様にジャズの似合うモダンなインテリアではなく純和風の、畳が敷かれ掛け軸のある床の間になっていて、喫煙スペースには煙管用煙草盆風の灰皿があったりする。店長はこう言うのも好きなのだ。生け花も飾られていて、それは週一のペースで新しくなる。店長は生け花の趣味もあって、教室に通っているらしい。掛け軸も拘っていて、それは以前美術館で見たものからヒントを得、軸装してもらったものだ。今回は月面写真の掛け軸だった。その展覧会は僕も見に行った。お嬢に連れられて金沢と大阪にまで行った。モノは一部を除いて一緒だが、見せ方などが違うという理由で。
 休憩は三〇分。その後一時間半働いたら今日は終わり。また明日明後日と入っているが、恐らく今日ほどこんなに疲れることはないだろう。私生活の中で、学校で会う人間と会うというのはこれほど疲れるモノだったのか。いや、ちょっと違うか。不意に、そして仕事場で、というのが疲れるのだ。お嬢には美術館だけでなく買い物に付き合わされることがたまにあるし、僕の財布事情に合わせてコレを買えアレを買えだのと言ってくる。今は脱いでいるが、今日履いてきたジョニーブーツもその一つ。今までの中では一番高額だったりする。多分その払う金額も段々と高額になっていくんだろうな……でも、アパレルモノだからまだいい。金額もだいたい知れているし、興味もあるから。それが腕時計とかになると上が見えない。まぁ流石にそこまでは言わないか。金額的に生死にかかわる。だから、まだ時計の良さが分からない僕の事だから売り払ってしまうかもしれない。いやそんな度胸は僕には……何を考えてる? まだそうなってないんだから、考える必要無いだろう。もうお嬢も帰ったし、今は僕以外誰もいない純和風の休憩室に居るんだ。何も考えないでおこう。
 一応、テーブルに置いてある目覚まし時計を二五分後にセットする。別に仮眠を取るわけじゃないが、意識をする意味で掛けておく。いつもこの休憩時間は読書タイムなのだが、今日は読み物を忘れてしまった。雑誌なんかは置いてあるんだけど、それらは全部読んでしまったし、僕は煙草を吸わない。時間を潰せるものと言えば……何もない。今日のところはただボーッとしていよう。それがどれだけ辛いことか知っているが、たまにする分には悪くないモノだ。

 今日最後のジャズライブが終わり、静かにお酒が飲みたい客だけになった。閉店までまだ時間はあるが、僕は此処までだ。先に入っていた麻倉さんはもうすでに帰っている。明日は昼過ぎから一一時まで入っており、明後日は開店から夕方まで。あ、明日は夕方五時からだった。とりあえず疲れを残さないように、早めに寝よう。
「今日はありがとうね。ほんとは休みだったのに」
「いえ、僕は基本的に暇ですから。あ、でも少しの間は部活動が入っちゃうかもしれないので、その場合は平日は夜からしか入れないです」
「分かった。シフト調整しておくわ。今日はほんとにありがと。お友達も連れてきてくれたし」
「アハハ。では、お先に失礼します。お疲れ様です」
「お疲れ様」
 ユペールを後にし、家路に就く。いつもの慣れた道筋なので、気が付いたら自分の寮に着いていた。ポストに何も入ってないのを確認してから自分の部屋の扉を開ける。すると、僕はギョッとして、部屋を間違えたかと思ってしまった。というのも、玄関には女物のパンプスがあったのだ。しかし此処は僕の部屋だ。部屋番も間違ってないし、鍵も僕ので開いた。靴棚には靴紐を市松模様に編み込んだアディダスや、僕がまだファッションに目覚めていない頃に買って今では履かないヴァンズ、何度履いてもトップで痛めるドクターマーチン、少しだけ汚れたものを買わされたポール・スミスのスニーカーと、明らかに僕の物があることから此処は確実に僕の部屋だ。じゃあ何で女物のパンプスがあるんだ?
 ……このパンプス……このシルバーのパンプスは…………まさか……。
 悪寒が走り、僕は急いでジョニーブーツを脱いで部屋に上がった。踏まれたから手入れしようと思ったが後回しだ。当たり前だが電気は付いていない。だから何があるのか明確には分からないが、明らかに誰かがいる。僕は部屋の電気を付け、ベッドに視線を落とした。
 ……いた。嶋原女史が。何故? それもぐっすりと寝ている。何故?
 お嬢の仕業か? 何故? 何のつもりだ? 僕は早くお風呂に入って眠りたいんだ。何で嶋原がいるんだ? 何故だ? 何故お嬢は此処までする? 僕に何をしてほしいんだ? あの時は踏んだくせに……。
 相変わらず嶋原は眠っている。それもまだまだ酔っている様子だ。アルコールの匂いと、肌のほてりがそのままだ。
 …………。
 ……酔いつぶれた女性が目の前に眠っている。
 ベッドですやすやと気持ちよさそうに眠っている。
 僕は眠気とお嬢の策略によって下半身が色々と危ない。
 ……いや、寝かせておこう。
 嶋原は望まず此処で寝ているのだ。何も僕に興味があって自分から此処に来たわけではない。もし、プライベートで知り合って、それなりの関係で、女性にこんな事をされているのなら僕は迷わず襲うだろう。彼女は魅力的な女性だ。実際此処で迷わず襲いたい。でも、これは嶋原の意思ではない。だったら寝かせておくのが一番いい。朝になって嶋原が気付けばお嬢の悪戯とでも言っておこう。嘘ではないのだから。
 シャワーを浴びる。此処まで身体がだるくない時はお湯を張りたいが、シャワーでいい。今日は待ちたくない。待っている間何をしろと? だからシャワーだ。
 熱湯を浴びながら、髪を洗いながら、僕はまた考えていた。ベッドで寝ている嶋原の事を。いや、実際はお嬢の事だ。
 ……これは、お嬢が望んだことなのか? お嬢は僕に、嶋原をどうしてほしいんだ?
 ……お嬢が望むこと、か。
 シャワーを浴び終わると、僕は座布団を並べて床で眠ることにした。ジョニーブーツは、踏まれたところだけデリケートクリームを塗り、シューツリーを入れておいた。それでも傷は消えることはなかったが、これも一つの勲章だと思う事にした。


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