・僕ノ夢日記・
肆 - 僕の僥倖日記 -
白いリノリウムの床をペタペタとスリッパで歩いている男がいた。
長い廊下を歩いていると歪な大きな頭がこちらを見ている。何体も並ぶ人の身体それぞれに大きな頭が付いていた。大きな瞳は左右均等でなく、口元は笑っているようにも見える。とにかく不気味で、男は目を伏せて床の繋ぎ目を辿っていた。
男はいつも、その繋ぎ目の数で廊下を歩く。幾つの時に角を曲がり、もう幾つの時に繋ぎ目が無くなると自分の病室に戻れる。男の眼球は常に左右にブレ、全てを見ながら全てが見えていない。男は常に線を辿り、意味を見出していた。だけど同時に全てを視界に入れず、自分の人生に介入させないでいたのだ。男がベッドから降りるのはトイレの時と顔を洗う時のみ。食事はベッドに付いたテーブルで。後はベッドに横になり、酷使した眼を安め、現の世から文字通り眼を背ける。今日もまた、偶像を思うのだった。
頭が痛い。別に昨夜飲んだ訳でもないのに、酷く二日酔いしたような、そんな絞られるような頭痛が、目が覚めると同時に襲ってきた。そして起き上がると、腰辺りのギシッというベッドの軋む音が響いた。
……ん? 昨夜を思い出せ、僕ははたしてベッドで眠っただろうか?
上はいつも通り肌着だけで、下はイージーパンツを穿いた筈だ。いつもはボクサーパンツだけなのだけど、今回は嶋原女史がいるから。
そう、ベッドには嶋原女史が寝ていた筈だ。僕は床に並べた座布団で寝ていた筈。だけどその座布団は元の位置に戻り、ベッドには僕が寝、イージーパンツは穿いていない。余談だが僕はスウェットやジャージを持っていない。スウェットなんかを買うぐらいなら他の服を買う分に回すし、学校以外で運動は殆どしないので普段に着れるジャージは持っていない。
……嶋原は? 此処に寝ていた筈の嶋原は何処へ行った?
僕は部屋を見渡し嶋原がいないことが分かると、キッチンもチラッと確認し、玄関に立った。あのシルバーのパンプスは無い。
何だ? 全ては…………夢だったのか? ジョニーブーツの甲には踵の痕があってちゃんとシューツリーが入れられていたが、いつもの僕なら此処で玄関には置いておかず、リビングの、新聞紙を敷いた本棚の上に保管している筈だ。もっと綺麗に手入れをしてから。
僕はこれらをどう解釈すればいいんだ? 幻覚でも見ていた? 何故? 夕方に嶋原の、仕事中にお嬢の色にやられながらも我慢していたから? 挙句の果てに幻覚にまで僕は我慢していた。もし全て幻覚なら、何とも馬鹿馬鹿しい話だ。笑い話にもならない。
トイレに行って顔を洗って嗽して、朝ご飯をどうしようか考えながらベッドの前に立った。枕元の匂いを少し嗅ぐ。当たり前のように僕の皮脂の匂いがするわけだが、ゲランオムの匂いもした。そこで少し考える。
昨夜の嶋原はこのゲランオムを付けていた。だけどこれは僕も付けるオーデトワレだ。過去にシャワーも浴びずにベッドに転がり込んだことがあったかもしれない。そう考えればこれだけでは嶋原がいた証明にはならない。しかしそんな事があっただろうか? 登校する際には付けて行かない。禁止されているから。仕事の場合も付けない。飲食店で香水臭い店員にいい思いをする人はあまりいないと思うから。だから付ける時は気まぐれ以外お出かけするときだ。買い物に行く時とか、お嬢に付き添う時とかだ。だけどそれらはシャワーも浴びずに眠るほど時間が遅くなるとか、酷く疲れるような事はほぼ無い。そして僕には友達がいない。いれば集まって夜遅くまで飲み、帰ってそのままぶっ倒れるということがあるかもしれないが、いないのだからまず無い。
それらの事を考えると、もしシャワーも浴びずに眠ってしまうことがあれば、覚えているのではないだろうか。いつ、までは忘れても、あぁそんな事もあったな、ぐらいの記憶はあるだろうに、僕にはそれさえない。だから、このゲランオムの匂いは…………。
ガジャンッ
……何ぞ?
結論が出る前に玄関の方で鍵の音がした。開く音か閉まる音かは分からないが、普段部屋にいる時は閉めているので多分開く音だ。
何故?
この部屋の主である僕は部屋の中にいるのだ。だったら鍵が開く理由がない。いや、無理やり理由を付けるとすると、お嬢がふざけて大家さんに開けさせた、と考えることが出来るが、その考えもまた結論が出る前に結果が出てきた。
「あ、おはよう。起きてたのね」
お察しの通り嶋原女史だった。
さてどう説明しようか。一切僕の考えが繋がらず、脳内で小爆発が起こったので嶋原がした説明は耳になかなか入ってこなかったが、つまりは昨夜の事は全て本当だったようだ。嶋原は酔い潰れてお嬢に連れて行かれてベッドでぐっすり、僕は座布団を敷いてイージーパンツを穿いて寝ていた。では何故朝起きるとそれらに不一致が起こったのか。それは嶋原が先に起き、朝ご飯を作ろうとしたが勝手に食材を使うのはアレなのでコンビニにお弁当などを買いに行っていたところ僕が起きたということ。ベッドで寝ていたり、イージーパンツが脱げていたのは、どうやら僕に記憶がないだけで、無意識にしたことのようだ。夢現だとよくある話だ。そう。そうしておく。
「あの、シャワー使ってもいい? 私そのまま眠っちゃったから、汗掻いたまんまで」
「えぇ、どうぞ。その間に朝ご飯の支度しておきます」ちなみに僕は着替えている。上は白のカジュアルシャツ。
そうだ。もうちょっと気が回れば嶋原が出掛けたことに気付けたかもしれない。玄関の鍵はいつも、玄関入ってすぐにあるフックに掛けているが、記憶を数分前に戻し辿れば確かに無かった……が、それだけではコンビニに朝ご飯を買いに行っただけとは思いつかないか。
嶋原が買ってきたモノで朝ご飯の用意をしながら、僕の何かのセンサーが反応した。考えてみろ、今、現在、僕の部屋で一人の女性が裸なのだ。いや正確にはまだ裸ではない。裸になろうとしているところだ。そう僕のセンサーが告げると、無意識に神経を集中させ、僕の指向性マイクが洗面所にいく。勿論何も聞こえない。でも服の擦れる音、嶋原の呼吸音、そして何気なく発する声が聞こえたような気がした。
僕は少し移動する。キッチンの入り口に。心臓がドキドキし、胃がキュッとなるのが分かる。そしてまた自分は考えた。
本当に昨夜の僕は、大人しく座布団で眠っていたのだろうか?
今の状況を考えてみろ。自分の部屋に女性がいて、シャワーを浴びているだけでこんなに他の事を考えられないほど内臓を圧迫されているんだ。昨夜、魅力的な女性が酔い潰れて無防備になっていた。本当に僕は何もしなかったのか? 無意識でベッドに入っていった? じゃあ無意識に嶋原を襲った可能性もあるんじゃないか?
ボクサーパンツの中を確認した。しかし別に変りない。トイレに行った時にも自分に違和感は無かったし、見たところで判別は付かないが、『付かない=いつも通り』という事は無かったということなのか? もし有ったら何か違うものなのか?
考えろ。凄く考えろ。もし何か有ったとしたら、僕の顔を見た嶋原は、あんなにも普通に挨拶が出来るものなのか? 僕の想像ではあれが出来るのは、本当に何も無かった時か、僕がその事を覚えていないという事を知っている場合なのではないか? でも僕が覚えていないことなど知る筈がないから、つまりは前者と言う事になる。
あの時はどうだ? 僕が何も覚えていないという事を告げた時だ。どうだった? よく思い出せ、記憶を辿れ、もし何か有ったならそれなりに表情を変えた筈だ。どうだった? 思い出せ…………駄目だ。その時僕は嶋原の顔を見ていなかった。結局何も分からない。
ベッドをまた確認するが、染みやらそれらしい何かも特にない……これもまた見て判るようなものなのか分からないのだが。
そろそろ僕は安心すべきだ。何も無かったのだ。何の変化も無いじゃないか。それとも僕はそれらが有ったことを期待している? していない事もないか。
大人しく朝ご飯の支度をする。と言ってもそんなに時間はかからない。やることは、お嬢にやっていることともバイトでやっていることとも一緒だから何も考えず盛り付けが済む。四枚切りの食パンを二枚分半分に切ってトースターに入れておく。嶋原がシャワーし終わり着替えている間に焼くことにする。
……僕は、耐えられるのか? 自分の部屋に、サンクチュアリに魅力的な女性と二人きり。誰にも踏み荒らされることのないこの場所で、そんな環境・状況で僕はただ朝食を済ませるだけで終われるのか?
分からない。その時にならないと、僕がどうするかなんて……。
ピリリリリリリ ピリリリリリリ
このケイタイが鳴るという事は、それはお嬢からでしかない。僕は迷わず通話ボタンを押した。
「はい、都々木です」
『ごきげんよう。昨夜はぐっすり眠れたかしら?』
「お嬢様、おはようございます。えぇ、昨日はわざわざお越しいただいてありがとうございました。お陰で気分よく眠れることが出来ました」
『あらそう。私も楽しかったわ。またお邪魔させていただくわね』
「はい、お待ちしております」
『ところで、嶋原先生はもうお帰りになった?』
「いえ、今お風呂場を貸しています。今僕は朝ご飯の支度をしているので、お帰りになるのはその後かと」
『そう。でもシャワーぐらい帰ってから浴びればいいのにね。何を思ってそうしていらっしゃるのかしらね』
「……」何かを含ませた物言いに、僕は言葉を詰まらせる。
それは嶋原に対しての皮肉? それとも僕に対しての啓発? 問うまでもない、それをお嬢が僕に言っているのだから……。
『ま、先生も今日明日と仕事も無く予定も無い様でいらっしゃるから、お暇があるのでしょう。そう言えば先生、お買い物に行きたいって仰っていたわ。付き合ってさしあげれば?』
「ん、えぇ。そうですね。僕で宜しければ、荷物持ちでも何でも致します」まさかお嬢が仲介役をするとは思わなかった。
『ではまた、学校で』
「あ、はい、では、失礼します」
電話が切れた頃に嶋原女史はシャワーを終えたようなので、僕はトースターのダイヤルを回した。
思いの外お嬢は世話好きらしい。嶋原女史の着替えまで用意していたのだ。流石にそれは嶋原女史の私物だが、今日の計画は全てお嬢が図ったものだったようだ。僕にとっては有り難くあるが、嶋原は何も思わないのだろうか?
「都々木君って普段もパリッとしたシャツ着てるの?」朝食はそれなりに進められる。自分の記憶をたどれば、こんなに普通の会話を淡々と進めるのは生まれて初めてじゃないかな。
「お嬢様に言われてるんですよ。休日も身形はちゃんとしていなさい、と。素材の良い白いシャツがいいと。だからってシャンソンしろとは言わないけど、と」
「シャンソン? 白いシャツ……あ、イヴ・モンタンの事かしら」
「僕はその人物の事を詳しく知らないですが、お嬢様は好きみたいなんですよ」
嶋原は細かい青地で白の水玉ワンピースを着ている。裏地が花柄で、なんとも少女チック。少女椿の表紙の様な……みどりちゃんを思うとそう言ってしまえば怒られるか。事実全然違うし。何せそう言う、少女らしくない少女らしさだ。いや違うな。例えに少女椿を出したのが悪かった。全然違う。忘れろ。
「今日は、この後どうされます? 実は、今日はほんとはバイトが昼からだったのが夕方からになったので、予定がないんです。買い物とか行こうと思うのですが、ご一緒にどうですか?」
「あら誘ってくれるの。じゃあご一緒させてもらおうかしら」んーん、なんて可愛らしい笑顔なんだ。作っているのは分かる。でもそれは悪意じゃなくて、善意じゃなくて、自分を良く見せようとかそんなのじゃなくて……やっぱり突き詰めていけば善意になるのかな。嶋原女史は別に僕にそこまで好意を寄せている訳じゃない。だけどこうやって、嶋原自身がショッピングに行きたかったにしても、それは僕と一緒でという訳じゃないんだ。お嬢に命令と言わずとも、言われてやっていること。嶋原女史のこの笑顔は、何処までが"本心"なのだろうか。
朝食も食べ終わり、後片付け。食べたその後すぐに洗い物をする。シンクにずっと何かが重なっているのは嫌いだ。実家の様に山盛りになって、洗っていると皿や急須を割るような事はしたくない。シンクはピカピカに光っているのが気持ちいい。ジャガイモの皮で磨くといいんだ。
「私がするわよ。お邪魔してるんだから、これぐらいやらせて」駄目だ。これ以上僕に気を遣わないでくれ。でないと、僕は、嶋原女史に……。
「そんな、折角のワンピースが濡れちゃいますよ」
「都々木君はまだお出掛けの準備出来てないでしょ? 私が洗い物してる間に準備しなさい。その方が効率いいわよ。それとも私を待たせるの?」何と言う悪魔の言葉。任せるしかなくなるじゃないか。僕は観念し、洗いものを任せることにした。
服をクローゼットに吊るしておくように、僕は靴も玄関じゃない場所に保管している。よく履くスニーカー類は玄関の下駄箱だが、革靴などの『良い靴』は日に当たらず風通しのいい、窓から離れた本棚の上に並べていた。昨夜のジョニーブーツもそこだ。僕はその日に着る服を選ぶ時、靴に合わせて選ぶことにしている。そうすることで綺麗にまとめることが出来るのだ。ただベルトと同色にするだとかそんな単純なものに近いのだけど、僕は靴に重きを置いている。
お嬢に出会うまで靴どころかファッションに全く興味が無かった。だから靴の良さなんて、ただちゃんと履ければそれでいいじゃん、というような感じだったが、『良い靴』を履いた時、理屈の無い自信が身についた。言葉通り"足元"が固まっていれば単純に自分に対して安心出来ると気付いて以来、お嬢に言われずとも靴は良いのを選ぶ。さて今日は隣に青い花が添えられる。だからそれに合ったものを選ぶべきだが、意識し過ぎるのも相手に迷惑だ。丁度いいところを考えると……切り返しが特殊な形状の黒のマドラスがいいかもしれない。真っ黒だとなんだと思い、靴紐を青に変えたものだ。通し方、結び方も特殊なものにしている。これに合わせた服を選ぼう。僕の年齢でこれらは大人過ぎるのかもしれないけど、嶋原女史の相手なのだから丁度いいんじゃないかな。
「それにしても都々木君、綺麗好きなのね。部屋も綺麗だし、流し台もこんなに」
「そうかもしれないですね。でも、他人からしたら窮屈な人間に見えるんでしょうけど」
「ぇえ、そう? 私はいいと思うけど。長いこと付き合っちゃうとそう思うのかな? 私はそんなにちゃんと片付けられないから、尊敬しちゃうわよ」
「整理整頓が出来るか出来ないかって、親から教わったかどうからしいですよ。小さい頃から何をどうすればいいかというのを教わったかどうか。僕の場合祖父から教わりましたけど」
「なるほど。そう言われてみれば私、親に言われながら片付けた記憶って無いな。片付けはするんだけど適当にポイポイって入れるだけで、後はいつの間にか親が綺麗にしてたわね。やっぱり親は子を甘やかしちゃ駄目なのねぇ」
決めた。パンツはクリースを入れた白のデニム。シャツは白をやめて古着屋で見つけた右胸の方にSAAをちりばめたヒスグラの黒のシャツを……いや、やめておこう。これを着るだけで一気にパンクファッションになってしまう。水玉ワンピには合わない。季節らしく行こう。上が白、下が薄い青のグラデーションのポロシャツに、トリコロールストライプの蝶ネクタイで行こう。後カンカン帽を。夏しちゃってるボーイだ。
「さわやかね。その帽子可愛いわね」
「これお気に入りなんですよ。形的に定番だと思ってたんですが、手ごろな値段だとあんまり扱ってるショップが無くて色々探して手に入れたんです」
準備はオッケイだ。これから僕の人生初のデートが始まる。
正直言って、僕がどういう立ち振る舞いをすればいいのかなんて一切分からない。お嬢に付き添うのとは訳が違うのだ。でも少なからず気分が高揚しているのは自分で分かる。あぁやって、嶋原が試着している様子を眺めているだけでも何だか楽しい。
「都々木君、どんなのが好き?」トップスを色々見ている。季節もあってだいたいが麻素材。オーソドックスなテーラードジャケット、丈の長い白のコート、襟が広くボタンの位置が高いのと丈の長いヒラヒラの二種類のジレ、男性的な形の白のライダースジャケット……いや、問題は内容ではない。こういう質問は、どう答えるべきなのか?
「そうですねぇ。どれもいいですが、今のワンピースにはこのライダースジャケットとかいいんじゃないでしょうか。女性っぽさと男性っぽさのミスマッチが、うまくハズ()シ()が出来ると思います。後、この丈の長いジレも、結構使い勝手いいですよ。思ってるより何にでも合います」
「そうねぇ。じゃあこれ二つにしちゃおうかしら」
「今のワンピースに合わせるのなら、ファスナーを閉めない方がいいので少しタイトなサイズの方が合いますね。ただそうなると、他の服を着る時、先生はスタイルいいですからファスナーが閉められないかもしれませんけど」
「あはっ、昨日思いだしちゃった」
「……」
嶋原女史の顔は仄かに色付き、恥ずかしそうに笑った。僕も彼女の豊満な胸を思い出して顔がカッと熱くなり、別の部分も熱くなった。
「それと、そう言えば私先生だったわね。部活だけだけど」
「ああごめんなさい。仕事じゃないんですから別の呼び方の方が良かったですかね?」
「う〜ん……『先生』はやめましょう。名前だけの方が、いいわね」
僕はゆっくり、深呼吸をした。それは気持ちを落ち着かせようと理性が働いたため。嶋原女史の仕草が、あまりに僕の何処かを擽()る所為だ。嶋原は硬直した僕をエスコートするように、メンズコーナーに向かった。
「都々木君のも見ましょ。何か欲しいのあるの?」
「え、え、えぇと……そうですね、ネクタイとかベルトとか、小物類をちょっと。あ、後、あっちにあったパンツも見ていいですか?」
「そんなの訊かなくてもいいわよ。あ、小物類はあそこね」小悪魔……そんな安易な言葉ではない。天使? そうじゃない、そんな安易に枠組みをしてはならない。彼女は、正式なそれで無いにしろ聖職者だ。こんな生意気なませた餓鬼に此処までペースを合わせ、此処までの笑顔を作れるだなんて、僕が彼女の年になった時に出来るだろうか? そう言ってもそこまで年齢は離れていない。いや、年齢は知らないが離れてはいない――僕には真似出来ないだろう。彼女は人として、何処まで出来ているのだろうか。
結局僕は何も買わなかった。何だか、決められなかった。どれも同じに見えて、買ってしまうと後で後悔しそうだから。
嶋原がレジにいる間。僕は電話をかけていた。それはお昼の予約だ。ほぼ直前なので予約という予約ではないが、行って満席だったなんて事はしたくない。予約と言うより確認だ。そこは一度、お嬢に連れていかれたレストラン。オフィス街の一角にあるので平日に行けば会社員も多い。後、主婦の方とか。勿論今日は土曜日なのでカップルやら女性ペアやらがほとんど。
目的地は近くにある。まぁ、近いからそこを選んだというのもある。お腹を空かせているのに歩かせるのはこっちとしても嫌だ。それとあの店はまた行きたかったんだ。
広さとしてはユペールよりも狭い。でもこの季節、営業中は窓や扉を全て開け、奥の二人掛けの席以外は開放感のあるテーブルになっている。学生である僕からすれば滅多に入れる場所ではないし、滅多に味わえない料理も置いてある。初めて来たときはビーフシチューを食べたが、凄く柔らかかったのは感動した。牛肉ってあんな風にほぐれるものなんだ、と少し感動した。
美味しいものに限らず、何か新たに発見したものは近しい人に伝えたいものだ。だからこうやって、嶋原女史の様に一つ一つの事に反応してくれる人は本当に嬉しい。食べ方も非常に綺麗だ。空いた左手はテーブルに立てず器に添えられている。嶋原もお嬢に色々言われたのだろうか? お嬢と同じように、思わず凝視してしまう。
「夜にも来てみたいわね。ディナーも美味しそう」
「まだ夜には来たことないですね。今度また、一緒に来ますか?」
「フフ。ええ、是非ご一緒するわ」
嶋原女史のその魔性に、僕はどんどんのめり込んでいく。それを自覚した瞬間、全身に悪寒が走った。女性とはこれほど、心地の良い"沼"があるものなのだろうか。もしこのまま進み続ければ、僕はもう彼女から抜け出せないのではないか。彼女にはそれだけの魅力がある。
時間となり僕は嶋原と分かれて、ゲランオムの香りを付けたままだがユペールへと向かう。そこにもまた一人、僕を魅了する女性がいる。
|